あり得ず 成し得ず 求められず
「遊び心」を忘れた押し付けゲームのなれの果て
「オウガバトル64〜Person of Lordly Cariber〜」
S・RPG史上に残る不朽の名作とされる「伝説のオウガバトル」「タクティクスオウガ」に続く「オウガバトル」シリーズ第三弾、オウガバトルサーガ第六章「オウガバトル64」。シリーズ初挑戦となる筆者がそこに見たものは、ひたすら突き進む事を要求し、プレイヤーに遊ぶゆとりを持たせない高慢でちっぽけな作品だった。
初めての「オウガ」
あらかじめ断っておくと、私はいわゆる「熱狂的なオウガファン」ではない。それどころか「オウガ」という世界に触れた事すらないというのが正直なところだ。「伝説のオウガバトル」「タクティクスオウガ」、どちらもS・RPGにおける不朽の名作とされる「オウガ」シリーズの作品だが、私は双方共にその噂を耳にした事こそあれど、直接プレイした事はただの一度も無かったのである。実際「オウガバトル64」にしても当時まだN64を所有していなかった私にしてみれば全くの対象外であり購入予定など立つべくも無かった。
ところがひょんな事から(「時のオカリナ」の為にのみ)N64を手に入れた事で私の立場は急変。「FFT」以降シュミレーションというジャンルに心引かれていた私にとってこれほど「おいしい」タイトルは無く、また友人から「タクティクスオウガ」のノロケ話を散々聞かされていた事もあって一も二も無く購入を決意した。
ここに初めて私は「オウガ」という未境の地へと足を踏み入れたのである。無論その胸に溢れんばかりの夢を抱いてだ。
遊べないシステム
「オウガバトル64」はパラティヌス王国に起きた革命戦争を舞台にしたS・RPGだ。プレイヤーたる主人公は革命軍の一員として参戦。一騎士団の団長となり自らの部隊を管理運用して各ミッションを攻略していく事が目的となる。
本当にただそれだけのゲームだ。一つの地域を解放(制圧)したら次の地域へと移動し、その地域の解放が済んだらまた次の土地へ、次へ、次という行為の繰り返しが「オウガバトル64」の基本的な流れであり同時にこのゲームの全てなのだ。途中解放地域の視察や自軍の編成等によって一時的に中断する事はあっても流れそのものが変化する事は決して無い。
と言うのも「オウガバトル64」ではEXPや軍資金といったキャラクターの強化や備品の購入にとって欠かせない資本を回収する要素が皆無と言っても過言ではないからだ。一度攻略した地域を再度訪れる事も可能だが自軍統治下である以上、当然敵が出て来る事は無い。野生のモンスターもいるにはいるが出現確率が低い上に逃亡確率も高く、何よりろくな稼ぎにならないので物の役に立たない。トレーニングにしてもそれを行うのに必要な経費そのものが有限である以上多用する事が出来ないとなれば決してユーザーフレンドリーとは言えないだろう。
結局このゲームで出来る(やらされる)事と言えば、決められた数のミッション、決められた量のEXPや資金の中で如何に強力な部隊を養成出来るかという事ぐらい。こうなるともはや泥沼一つ一つのミッションは消化試合でしかない。また仮に最強の部隊を作り上げたところでエンドレスプレイなどのアフターフォローがある訳でもない。クリアしてしまえばそれまで彼等の活躍はそこで終わる。
一つ一つのミッションも敵味方共に道なりに進軍するばかりで戦略性やバリエーションに乏しく魅力に欠ける割には蓄積した疲労度の回復や逃亡状態となった敵ユニットの追跡、リアルタイムによる進行のせいで時間ばかりは無闇にかかる。更にそうした中でトレジャーアイテムの入手やアラインメントの調整、拠点モラルとの相性やユニット間の戦力の均衡化等にひたすら気を使わされる等々、不満要素を挙げれば本当に切りが無い。これでは的確な状況判断と効果的な戦力展開によって勝利を掴むというSLGの醍醐味を味わうどころかむしろ神経ばかり使わされるというマイナス面だけが際立ってしまっている。何の為のSLGなのかと言いたいくらいだ。
唯一の救いは各クラス(職業)の戦力や個性が実に幅広く、また全体的な戦闘バランスが極めて高いレベルで完成されている為、単純な戦力とプレイヤーの好みという相反する二つの側面を共に尊重したいわば自分だけの軍隊を編成出来るという事ぐらいだが、それだって活躍の機会がなければ「絵に描いた餅」「張子の虎」だ。
ありとあらゆる苦労にただひたすら耐え続け、それをただひたすら繰り返す。その後に待っているものは完全な「無」だ。これが「名作」として、いや「ゲーム」としてあるべき姿なのだろうか。
上辺だけのテーマと空回りするシナリオ
「オウガバトル」シリーズのもう一つの顔は深いテーマに裏打ちされた物語展開にあるという。それは「戦争と平和」とでも言うべきか、独善的で横暴な権力者、大義名分の元に決起する革命軍、そうした世の流れに翻弄される民衆の姿。時代を超えて生きる人々が抱く「思い」「惑い」。
しかし実際にはどれだけの事がゲームの中に反映されていただろうか。例えば町や村などの各拠点の解放と制圧の違いやプレイヤーの取った行動によって変化する民衆の見えざる支持率「カオスフレーム」にしても一本道のシナリオが変化する事は無く、実質的な影響力は皆無に等しい。一部の固有キャラが参戦する・しないなどの変化はあるがそれを「民衆の声」として意識するというのはかなり難しい事のように思う。一応バッドエンドなるものも存在するにはするが、それを見るためには相当「悪い事」をせねばならず、逆に余計神経を使ってしまうくらい。
シナリオ的に見ても「オウガバトル64」は「FFT」と同じ轍を踏んでしまったかに見受けられる個所が多々ある。
大国ローディスの元に屈服し階級制による厳しい身分制度を強いられるパラティヌス王国。貴族の息子として何不自由なく暮らしていた主人公。士官学校卒業後配属された辺境の地・南部にて初めて下級民として虐げられている人々の存在を知った彼はやがて大いなる革命の中にその身を投じていく。
世直しというある種「指輪物語」等に通じるハイファンタジー的なものを期待させるものの、実際には殆どヒロイックファンタジー(S・RPGという設定上仕方ない部分もあるが)。活躍するのは常に主人公とその部隊だけなので自らが所属しているにも関わらず革命軍の規模や存在といったものが今一つ掴みにくい。極論してしまえばまるで主人公達しか存在しないかのようだ。その上物語の中盤あたりから、オウガ、暗黒道、魔界の住人といった「オウガバトルの伝説」を巡る陰謀劇へと話が逸れて行ってしまい革命そのものの意味が軽視されてしまっているような印象を受ける。
「FFT」ではあえて話を歴史の「裏」にする事でこうしたプレイヤーと物語との乖離を極力避けていた(必ずしも成功していたとは言い難いが)。ところが「オウガバトル64」ではいつまでたっても「表」舞台であるために革命の存在がますます軽くなってしまう。終盤、究極の力、ダニカ神の復活、オウガバトルの再来と加速する「伝説」に対し革命などもはや片手間、最終決戦となる中央軍との戦いなど「魔界の奴らと一戦やる前にとっとと済ませとくか」ぐらいの勢いだ。
深いテーマや壮大な物語を描く事を一概に否定するような事を言うつもりは無いが、それらが暴走し、また振り回されてしまうようではそれこそ意味が無いと言うものだ。
「遊ぶ」とは何か
結局このゲームは何を遊ぶのだろう。このゲームでは何が遊べただろう。これが最後に残った私の疑問だった。
どんなに優れたシステムもどんなに見事なシナリオもそこにユーザーの遊ぶゆとりがなければ意味が無い。「遊ぶ」とはユーザーが自分の目で見、手で触れ、心で感じる事であるはずだ。決して「遊ぶ」心を忘れてはならない。決して押し付けてはならないのだ。それを忘れてしまってはムービーを垂れ流し、映像技術ばかりが突出し本来あるべきゲーム性が疎かになった作品群と何ら変わり無いではないか。
今なお人々の心を引きつけて止まず、その存在がもはや伝説とならんとする名作「オウガバトル」。その最新作に対し何故こんな当たり前の事を言わなければならなかったのか、今はただそれだけが悲しくてならない。
1999年 10月 9日